彼女の福音
肆拾弐 ― 父(に呼ばれて)、帰る ―
私はその冗談に憮然とした。
「母さん、そういう冗談を言うのは、少しどうかと思うが」
「冗談?」
「だってなぁ、陽平だって頑張っているじゃないか。それをそんな突拍子もない空想と交えるなんて、酷いんじゃないか」
すると母さんは私を凝視した。
「だから冗談じゃないんだって。陽彦には、しっかり者の別嬪さんがいるんだよ」
「自分の生んだ息子の名前ぐらい、いい加減覚えないか」
母さんが夕食の席で言ったことは、しかし俄かには信じがたかった。
私達には二人の子供がいる。少し馬鹿で、おっちょこちょいで空気の読めないところのある陽平。かわいい割にはいろんなところが計算ずくしで、ある意味ちょっと怖いところのある芽衣。陽平は今、小さな会社の小さなチームリーダーとして勤めており、芽衣は都会の会社で秘書をやっている。二人とも長所短所はあるが、私にとっては大事な子供達だった。
で、何だったかな。ああ、そうだ。陽平の話だった。
ある時、母さんが陽平のアパートまで顔を見に行ったところ、どうやら光坂市で入院しているとわかった。何でも、全身くまなく打撲傷やら骨折やらで身動きの取れない状態だったらしい。何があったのかは母さんも知らなかったし、どうやら真相は謎に包まれて闇に葬り去られたようだが、とにかく命に別状はなかったらしい。まあ、陽平の場合小さい頃から命を失うほど馬鹿なことを何度も何度もやってきたから、もしかするとタフな男になったのかもしれない。あるいは死神もいい加減陽平を迎えに行っては結局手ぶらで帰るのも馬鹿馬鹿しくなったのかもしれない。
それはともかく、閑話休題。
そう、そこで問題となったのは、陽平をお見舞いに来ていた客がいたということだ。最初はその客が陽平と親しくしている岡崎という男かと思っていたが、違うと聞いて吃驚するとともに、嬉しくなった。高校ではいろいろとごたごたがあって友人も少なかったと聞くが、そうか、とうとう陽平にも友達がもっとできたんだなぁ。
そんな感慨にふけっていると、母さんがさらに驚くようなことを言った。何でも、その見舞い客は女性だったという。陽平に女性の知り合い?そんな話、聞いたことがないぞ?ここでは素直に喜ぶというより、少しばかり猜疑心が首をもたげた。
私の疑いは、その女性が陽平の彼女を名乗ったことで更に深まった。陽平に彼女?いや、確かに中学時代はいろいろと女と付き合ったり別れたりを繰り返していたが、まさかそんなことを今でも続けていたのか?いやいや、これは違う。何かの間違いだ。そうか、母さんめ、芽衣がいなくなったからって寂しさを紛らわせるために、私を担ごうというのか。
母さんがその女性のことを綺麗で面倒見のよさそうな、礼儀の正しい人だと説明したときには、それは冗談以外の何でもなくなった。
「それにしてもねぇ、陽馬にあんな彼女がいるなんてねぇ……あれは絶対に添い遂げると思うよ。間違いない」
「君が間違いないと言った場合、約七割の確立で間違えているんだが」
「何だい、あんたあたしの言うことが信じられないのかい。悲しいねぇ」
そう言って母さんは小馬鹿にしたように「ハッ」と笑った。結構、いや、物凄く癪に障った。
『うん、それ冗談じゃないよ』
そう聞いた時、私は一瞬耳を疑った。そして次に己の精神の正常性を疑った。そこまでしてもまだ納得がいかなかったので、私はとうとう芽衣を疑うことにした。
「なぁ芽衣。父さんとお前の仲じゃないか。冗談を言ったらいけないよ」
『冗談でもないし、嘘でもない。それでもって幻聴でもなければお父さんが頭がおかしくなったわけでもないよ。お兄ちゃんにはね、すっごく綺麗な彼女がいるよ』
「……本当だったのか」
『だからそう言ってるでしょ』
もう、しょうがないんだから、お父さんは、とため息を吐かれてしまった。
「そ、それで、芽衣、その人はどんな方なんだ?何かの精じゃないだろうな?狐か?生霊か?」
『違うよ。お兄ちゃんの彼女はね、藤林杏って人でね、私もずっと前からお世話になってるんだ』
「ぬぅ、陽平のやつ、いつの間に幼馴染フラグを……」
『でもまぁ、杏さんってそれなりなところもあるからねぇ』
「それなりなところ、だと?」
すると急に芽衣はごまかすように笑った。
『あ、ごめん。今何だか電話が入っちゃった。また後でかけなおすね』
「あ、こら待ちなさい、芽衣っ!父さんとよりも大事な会話なんてあってたまるかっ!おい、芽衣っ!!」
『じゃあね〜』
プツッ
ツーツー
そして芽衣は電話を切ってしまった。私は唖然と切られた携帯電話を眺めていたが、やがて芽衣の言っていたことを冷静に分析し始めた。
まず、綺麗であると。それは二人も証人がいるからいい加減認めたいところだが、二人とも陽平に甘いところがあるので、もしかすると実際の五割増なのかもしれない。
名前は藤林 杏と言う。どう考えても芸名ですありがとうございました。そうか、もしかしたら女優を使っているのかもしれない。陽平め、そんなふうに見栄を張るだけの余裕があるんだったら、自分のために貯金しろといいたい。
そうは思うものの、二つほどすっきりしないところがある。
まず、陽平の高校時代からの知り合いで、芽衣も世話になったということ。陽平の高校生活はいろいろとだめだったと聞くが、そんな時から陽平を知っている、というのが腑に落ちない。こういう嘘は、つい最近知り合ったと言った方がいろいろと足が出にくくてばれにくい物なのだ。その上、芽衣もつい最近知り合ったわけではないという。では、本当に高校時代の友人?いやいや、何を馬鹿な。陽平と芽衣が通った高校は光坂高校。進学校としても有名な名門だ。そこの出身となると、さぞかし頭のいい女性なのだろう。恐らく読書が好きで、片身放さず本を持っているに違いない。そんな女性が本と言ったら漫画しかないという陽平と付き合う?ないない。でも、しかし……
そしてもう一つ気になることがあった。それなりなところ。
一体何なのだろう。何がそれなりだったのだろうか。うーむ、謎だ。ぜんぜんわからん。例えば、実は狼人間とか吸血鬼だとか?でも、何かの精の類ではないと芽衣は言ったしなぁ。では、実は大喰らいだとか?むむむ、それでは陽平の稼ぎでは破綻してしまうかもしれないな。確かにそれは問題だ。しかし、それなのだろうか?
結局、私は芽衣から電話がかかってくるのを待った。そして例によって例の如く、二時間ほど無駄にしてしまった。
『はぁ?杏を連れて来い?』
陽平が我が息子ながら間の抜けた声を上げる。私はしっかりせんかっ、と怒鳴りたい気持ちを抑えて、厳かに告げた。
「そうだ。彼女ができたんだったら、両親に挨拶しに来るのが筋というものだろうが」
『あ、でも母さんにはもう会ったよ?』
「母さんだけでは信用できんっ!だいたい、芽衣も知っていて母さんも知っているんじゃ、これじゃあ父さんだけが仲間はずれじゃないかっ!イジメイクナイ!!」
『あんたゼンゼン大人げないっすよねぇっ!?』
「む。父親をあんた呼ばわりはないだろう、陽平」
『あれ?テメエだったっけ?』
「お前はいつの間にそんな不良になったんだ。それもこれも、杏とかいう女と付き合っているからだろう」
『杏は関係ないよっ!!何勝手にそんな事言ってんだよっ!!』
冗談で言ったつもりだったが、案外本気の答えが戻ってきた。沈黙の後、ばつが悪そうに陽平が「ゴメン」と謝ってきたので、私は咳一つで忘れることにした。
「それよりも、とにかくその女性に合わせてくれ。私も興味がわいたんでな、お前と付き合ってくれる女性がどんな物好きなのか」
『……それって、絶対に僕に悪意込めてるでしょ。込めてるよね?』
「では、来週の土曜日ということで」
『無視っ?!今僕、実の親に無視された?!』
「ではな」
『ちょっと待ってよ、待てよおい……』
ぷつ。
ツーツー。
私は今しがた切った電話が無機質な音を立て続けるのを聞きながら、ふと思った。
うん、勝手に電話を切るのもまた、それなりに快感な物だな。
そしてその日、私はしょぼしょぼ眼に無精ひげ、おまけに目の下には隈という、少しばかりだらしない姿で台所に現れた。
母さんは私を一目見るなり、里に下りてきたクマを目撃してびっくりした村人Aのようにひゃあ、と悲鳴をあげた。
「どこの化物だね、あんたっ!他人様の家に勝手に上がり込んでくるなんて、お行儀が悪いにもほどがあるよっ!!」
「母さん、まず私だ、化物ではない。それから他人が勝手に家に入ってきたら、それは家宅侵入罪だ、マナーレベルの問題じゃない。あと、とにかく包丁を振り回すのはやめてくれ」
「……あらま」
あらまじゃない。あらまじゃないぞ全く。
「にしてもあんた、すごい顔だね」
「ああ、結局昨日は一睡もできなかったからな」
「へえ。そんなに楽しみなのかい」
楽しみ、と言ったらそうだ。何せ、今日は陽平が、もしかしたら自分の将来の連れ合いになるかもしれない女性を連れてくる日なのだから。しかし、少し不安でもある。美人であることはわかった。しかし問題も抱えていることもわかった。いったい、どんな女性なのだろうかと考えていたら、夜が明けてしまったというわけだ。ちなみに、以下は私が思いついた嫁舅ご対面シチュエーション厳選三場面だ。
『やあ父さん、これが僕の彼女の……』
『藤林杏ですwwwよろしくwww田舎テラワロスwww』
コメント:都会というものは恐ろしいからな。
『やあ父さん、これが僕の彼女の……』
『…………』
『あ、ごめん。杏はね、すごい人みしりなんだ。だからあんまり人の前ではしゃべらないんだ』
コメント:陽平は人じゃないから安心して話せるんですねわかります。
『やあ父さん、これが僕の彼女の……』
『藤林杏です……陽平さん、あなた嘘をつきましたね』
『へ?何のこと?』
『あなた、私と妹さん以外には女性なんていないって、そう誓いましたよね?あの方はどなた?』
『やだなぁ、僕のおふくろだよ』
『……許さない』
『へ?』
『私よりも陽平さんに近い女性がいるなんて許さない許せないっ!陽平さんは私のモノ!ほかの女になんて渡す物ですかっ!!』
コメント:どう見ても「ヤンデレな幼馴染に愛されすぎて夜も眠れないCD」でしたありがとうございました。
「そんなに大事なことかねぇ」
「当たり前だろう?何だ、母さんにはわからないか?」
「あたしゃ女だからねぇ」
そう言われると少し困ってしまう。親というもの、息子のことを思うのは同じはずだが、母親はそういうところは父親よりも寛容なのだろうか。
「甲子園開幕のどこがそんなにすごいのか、そんな聞かれてもねぇ」
「違うっ!!全然違うっ!!」
ああ、母さんのボケもここまでくると、最早芸術や才能を通り越して文化だ。
「ういーっす、ただいまー」
陽平の間の抜けた声が聞こえたのは、その日の昼頃だった。その後に控えがちに「あ、あの、お邪魔します」という声を聞いて、まずはまともな対応だな、と思った。こう、ケェエエエエエエッ、とか叫ばなかっただけでも挨拶としては及第点だろう。
「あらあらまぁまぁ、藤林さんこんにちは」
「お久しぶりです、お義母さま」
「あっはっは、あたしゃあんたの母ちゃんじゃないよ。そこのヨーハンの母ちゃん」
「そういう意味で言ったんじゃないよっ!それからその名前もう日本人ですらないよねえっ!!?」
「しっかしまぁ、藤林さんは別嬪さんだねぇ」
「そんな……お上手なんですから」
「陽太郎にこんな彼女がいるだなんて……父さんさえ生きてたら、喜んだだろうにねぇ……」
「……」
「…………」
「私がどうかしたのか?」
何だかこのまま死者扱いされそうだったので、私も玄関に出てきた。
「また父さんが鬼籍に無理やり入れられてたよ……」
「戻ってきたなんて、何て奇跡、なんちゃって」
「……」
「…………」
「………………」
母さんの冗談はとりあえず無視しよう。というか、それどころじゃなかった。私は藤林杏、という女性と初めて出会ったのだった。そして次の瞬間私は部屋をかけ出して携帯で芽衣に電話した。
「やべぇ、滅茶苦茶かわいいよっ」
『お父さん?何言ってるの?』
「あ、ああ。今陽平の彼女が来てるんだがな」
『杏さん?ね、言ったでしょ』
「あ、ああ。ではまたかける」
私は咳払いを一つすると、玄関に戻っていった。
「は、初めまして、藤林杏さん、父の春原昭二郎です。趣味は読書です」
「は、はぁ」
「僕の彼女に何勝手に自己紹介してるんだよっ!」
「うるさいぞ陽平。まぁまぁまぁ、とにかく上がってください」
どことなく引き攣った笑顔を浮かべながら、藤林さんが靴を脱いで上がってきた。
「え、ええと、藤林さんはどんなお仕事についておられるんで?」
「あ、はい。あたしは光坂の幼稚園で教えています」
「あ、そうだったんですか。いやぁ、私はてっきりモデルの仕事をされているのかと」
「おほほほほ、またまた、ご冗談を」
「ちなみに僕は……」
「うるさい黙れ」
「あ、あの、お義父さま」
びくっ
私は体が震撼するのを感じると、また猛ダッシュで部屋を出て芽衣に電話した。
「やべぇ、お義父さまって呼んでくれちゃったよ!」
『いちいち報告しに来ないでよ』
「あ、ああ。すまん」
電話を再度切って、私は深呼吸すると居間に戻っていった。
「や、やあ、さっきはすまなかったね、ハハハハハ」
「い、いえ」
「それで、今日はどんな用事でこちらに?」
「は?何言ってんの。あんたが連れて来いって言ったから来たんじゃん」
「じゃかましいっ!私はこちらのレディに話しておるんだ。ミジンコは黙ってろ」
「はぁ?何だって?」
私に向かって、陽平が立ち上がって睨みつける。このうつけが、育ててきてやった恩を忘れおって、少しぐらい彼女と会話させてくれてもいいではないか。
「はい、二人ともストップ。お義父様、ここは男の器の広さでぐっとこらえて。陽平も落ち着きなさい」
「あ、うん」
陽平がすごすごと座り直すのを見て、私は確信した。またもや部屋を駆け出ると、私はまたもや芽衣に(ry
「やべぇ、すげえいい子だよっ」
『ただいま留守にしております。ピーという音の後でメッセージをお残しください』
むぅ、留守電か。
少しばかり肩を落としながら私が居間に戻ると、杏さんは顔を赤くしており、陽平はげんなりと私を見ていた。
「む?どうした」
「え、ええと……」
「つーかさ、父さん。さっきから全部筒抜けなんだけど」
な、何だとっ……
「ひぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ」
「あ、それってお義父様譲りなんだ」
「おいおい父さん、騙されちゃ駄目だぜ?」
にへへ、と笑いながら陽平が私を小突いた。
「騙される?」
「そうそう、こう見えても杏って怒ると凶暴……」
めきょ、ぐしゃり
杏さんの拳と私の拳が陽平の顔を左右から直撃した。反対方向に向かって放たれた拳撃を顔に喰らい、陽平は竹トンボのごとく回転しながら空に舞った。我が息子ながら不気味な奴だ。
「何を杏さんに失礼なことを言っているんだお前はっ!」
「怒らせるのはどこのどいつよっ!」
「あんたらいつの間にか息ぴったりっすねえっ!!」
モザイクのかかった顔で陽平が怒鳴った。
「いや、まぁ普通に?」
「本能的に、ねぇ?」
私達は顔を見合わせて頷いた。
「杏さん、これからも二人でびしばし陽平を鍛えていくというのはどうだろうか」
「そうですね。お義父様もお力を貸してくださるんでしたら」
「ひぃいいいいいいっ!」
新しいタッグコンビの結成に、陽平の絶叫が家の中に響いた。